FEELING ARCHIVE / いとおしい
20:32 / 車内 · 梅雨好きな曲が、一曲だけ増えた帰り道。
曲の途中で話すのをやめた。嫌な沈黙じゃなかった。
フロントガラスに、雨粒が横から当たる。ワイパーが動くたび街灯がちぎれて見えた。ラジオから知らない曲が流れたけれど、相手が小さくサビを歌ったので、そのままにした。
ワイパーは三回に一回だけ速く動く。赤信号の間、スピーカーから聞こえる曲のサビが窓の雨音に混ざっていた。車内は暖かいが、窓の向こうは濡れた道路で光が伸びる。後部座席には買った飲み物の袋。いろいろ話してきた一日の最後に、急に説明することがなくなって、曲の方がよく聞こえた。
A SMALL SCENE / 創作会話
あなたこの曲、知ってるの?
相手うん。高校のとき聴いてた。
あなたなんて曲?
相手あとで送る。
創作した会話です。実際の誰かの発言や作品の引用ではありません。約束どおり届いた一曲が、その日の栞になった。
WHAT WAS DIFFERENT
あのとき、何が残ったんだろう。
相手がサビだけ口ずさんだとき、ずっと一緒にいた自分の知らない時間がそこにあった。高校の帰り道か、勉強していた夜か、誰かと聴いた曲なのか。『いつから好きなの』と聞きかけて、曲が終わるまで待った。理由は大したことではなく、続きを聴きたかったからだ。相手の昔の好きなものが、今日の車内に少しだけ重なった。
好きな曲を教えてくれることは、必ずしも特別な好意の証明ではない。そういう判定を始めると、うれしかった数分が急にデータになる。自分にとって新しい曲が一曲増えた。それだけでも、同じ音楽を聴いた意味は十分あった。曲を送ってくれると言ったら、あとで聴くねと返せばよかった。
WHY THIS STAYS
忘れられないのは、
こういうところ。
好みが同じだったから印象に残ったのではない。知らなかった相手の時間が、その曲の数分だけ車内に入ってきたから。
数週間後、プレイリストを流していてその曲が来ると、雨のワイパーまで思い出す。
数週間後、電車の中で再生リストからその曲が流れた。雨も降っていないし、車に乗っているわけでもない。それでもワイパーの動きと、信号が青に変わったタイミングが浮かんだ。曲を最後まで聴いたあと、その歌手の別の曲を探した。自分の好みが一つ増えたというだけなのに、少しだけ誇らしかった。
IN YOUR OWN STORY
もし、似た日が来たら。
相手が好きだと話した曲を、あとで自分でも聴いてみる。『さっきの曲よかった』なら自然に伝えられる。
車内で相手が自由に帰れるよう、行き先と帰着時刻は事前に共有する。音楽の好みを押し付けない。
曲は三分だった。帰り道は、もう少し長かった。
架空の場面。特定の実話・SNS投稿・映像作品を基にしていない。
イメージ写真: Hu lei / Unsplash。写真は創作された出来事そのものを撮影したものではありません。
気持ちから探し直す